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第七話 大切な人、大切なこと
-to do before going bed-

1.

 ここ数日、頭がすっきりしない状態が続いていた。 今野先生と会った日、先生と別れて教室で一人考え事をしていた。 そして、昔のことを思い出そうとした直後、頭が割れるような痛みを感じた。 理由は未だにわからないが、ただの頭痛ではないことは明らかだ。 わたしの幼少時代の空白の時間、わたしの過去、圭一さん、なにか関係があるのだろうか。
 ふらふらと校内を歩き、かろうじて通行人をかわしながら正門を目指した。 今日は美里ちゃんと合コンに行く約束をしていた。あまり気乗りしないが、今更断るのも申し訳ない。 待ち合わせ時間は過ぎていたが、時間にルーズな美里ちゃんのことだから、 まだ来てないと踏んでゆっくりと歩いていく。
 正門は待ち合わせ場所の代名詞のようなもので、沢山の人が付近に群がり、通行人の邪魔をしていた。 みると、その中に美里ちゃんの姿があった。腕時計を見ながら腕を組んで辺りを見渡している。
「美里ちゃん。」
わたしは小走りに近づき、声をかける。
「遅い!遅刻よ、遥歩。」
わたしを見つけると、美里ちゃんはぴしゃりと注意した。だが、怒っているようでも顔は笑っている。 美里ちゃんがこのくらいで怒るような人でないことはわかっていた。
「ところで、結局どこへ行くの?」
「この道をずっと行ったとこ。あたしは結構行くんだけど、遥歩は行ったことない?」
わたしはこくんと頷く。
「まだできたばっかりで、結構綺麗なんだよ。 気に入ったら、今度プライベートでもいこう。」
「うん。」
美里ちゃんは軽くウィンクして、わたしたちは大学を出た。

 わたしが美里ちゃんと落ち合う少し前、圭一さんは研究室を出、しっかり鍵をして駐車場へ向かった。 これからアイバー達と取引に行かなければならない。自分で言い出したことだ、 もしいかなければわたしも含め何をしてくるかわからない。
 車に乗り込み、鞄を開けて中を確認する。 一つは技術文書のコピーが入ったCD−ROM。 ただし、これはダミーで、中は何の関係もないデータが入っている。 ほんの一瞬、奴らに隙を作らせればいい。 もう一つは未だ使ったことのなかった拳銃である。 グリップを握り、引き金に指を通してみる。ずっしりとした重みが手に伝わってくる。 途端に鼓動が早くなった。
 『レガシー』の研究を始めてから、こういう日が来ることはわかっていた。 相手が政府か、他社か、アメリカのマフィアかはわからなかったが、 極秘で進めていたこの研究を奪いに来ることは必然だった。 そしてこの日のために購入した拳銃を、今夜初めて使おうとしている。 俺に人を殺すことができるのか? いや、あの日既に俺は彼女の命を奪ってしまった。 まだ幼く、無垢な少女。幻想の世界に魅入られ、俺のことをお兄ちゃん、お兄ちゃんと親しく接してきた少女。
 冬幻想花を操ることのできる、不思議な少女。
 そして、代わりに生まれた少女。 何も覚えていないはずだが、彼女もまた、冬幻想花と意思疎通を図ることができるだろう。 そして、その少女を、俺は愛してしまった。
 あの日から全てが始まり、今夜、全てを終わらせて見せる。 もう誰も失いたくない。かけがえのない彼女を、失いたくない。 たとえ自分の手が汚れようとも、彼女だけは守ってみせる。
 圭一さんは拳銃を内ポケットに収め、車のキーを回した。 心の中で何度もわたしの名前を呼びながら、車を発進させた。

 待ち合わせ場所には19時10分ごろ着いた。趣味の悪い真っ黒な外車が、夜の闇に包まれている。 そして、街灯のわずかな光に照らされて、アイバーは煙草をふかしていた。 だが、いるのはアイバー一人で、車の中にもレベッカの姿が見えなかった。
 圭一さんはアイバーの車から10メートルほど先に車をよせ、エンジンをかけたまま車を降りた。
「よう、遅いぜ。10分遅刻だ。」
「19時前後と言っただろう。そう怒るな。」
「ふっ、そうかい。それで、例のモンは持ってきたんだろうな。」
「ここにある」と、持っていた鞄をとんとんと叩いた。
「よし、良い心がけだ。だが、取引を始める前にだ、一つ訊くことがある。」
「なんだ?」
「レベッカをどこへやった?」
アイバーは煙草を足下に落とし、靴で火をもみ消した。
「二日前、柳本凛とかいう小娘を尾けるって行って出て行ったきり、行方がわかんねえのさ。」
「柳本さんを? なぜ?」
「さあな。随分気にしてたみてえだったが、詳しくは聞いてねえからわからねえ。」
そう言えば、初めて遥歩とレベッカがあったとき、彼女も一緒だったな、と圭一さんは思い出していた。
「そこでだ。お前さんが何かちょっかい出したんじゃないかと思ってな。」
「悪いな、一向に身に覚えがない。」
「そうか。まったくどこへいっちまったんだか。」
いらつくアイバーを尻目に、圭一さんは微笑を浮かべようとするのを必死にこらえた。 てっきり二人一緒だと思っていたが、相手が一人となれば上手くいく可能性が高くなる。
「とにかく、レベッカは後だ。今はまずもらうものを貰わなきゃな。」
圭一さんはアイバーに気づかれないように、静かに深呼吸した。 そして鞄を地面に置き、ファスナーを開けてCD−ROMを取り出す。
「文書はこの中だ。」
「よし、投げろ。」
圭一さんはディスクの入ったケースごと、下から放り投げた。 弧を描きながら、丁度良くアイバーの目の前に飛んでいった。 アイバーは片手でそれを掴んだ。ケースを開けて、裏表を確かめる。
「本物だろうな。」
「嘘だと思うなら確かめてみれば良い。」
アイバーはふっと笑って、「そうさせて貰おう」と言いながらドアに手をかけた。
 圭一さんの緊張はピークに達した。今しかない。 とっさに胸ポケットから拳銃を取り出し、照準を合わせる。 しかし、思ったよりも時間が掛かってしまい、その一瞬の間に状況を読み取ったアイバーは車内に身を伏せた。 一発弾を放った。だが車のフロントガラスを砕いただけで、アイバーに当たってないのは確実だった。 期を逸した、そう思った圭一さんは続けざまに二発発砲した。 いずれもガラスを貫き、その隙に車に乗り込みアクセルを踏み倒した。 顔を上げたアイバーは急発進する車に向かってすぐさま発砲する。 一発は後部ガラスを打ち抜き、驚いた圭一さんはハンドルを取られ、車は路肩に乗り上げ、 墓地の周りに張ってある柵へ突っ込んだ。 アイバーもエンジンをかけ、車を発進させる。 圭一さんはハンドルを切って、強引に路肩から脱出し、細い一本道を疾走した。
 残り弾は二発。だが、相手はプロだ。こちらの意志がばれてしまった以上、普通にやっては勝ち目はない。 なんとかして街中まで出、人並みの中に飛び込めば、とりあえずその場はしのげるだろう。 だが、家の場所は割れている。怒った奴らが残されたわたしに何をするか、想像は容易にできる。 逃げるわけにはいかない。こうなってしまった以上、確実にしとめなければならない。 しかし、細い道を法外な速度で走っている上、路面の状態は悪く、気のゆるみ一つで大事故になりかねない。 だんだんと迫り来るアイバーの車が、さらに圭一さんを急き立てた。
 銃声がしたのと、急にハンドルが取られたのはほぼ同時だった。 いうことがきかず、暴走する車を止めるため、ブレーキを踏み込んだが間に合わず、 脇の急な泥の斜面へ突っ込み、大木に衝突してようやく止まった。
 一瞬だけだが、圭一さんは気を失っていたようだった。 恐らくアイバーの撃った弾が後輪へ命中し、パンクしたのだろう。 エンジンも止まってしまっており、発進することも不可能だった。 改めて、自分の犯したことがどんなに愚かなことか思い返され、頭を押さえた。 きっと自分はこの場で殺され、この一連の事件に関わったわたしにも、彼らの手が伸びることだろう。 初めから勝ち目がなかったのかもしれない、そう考えてしまう自分が腹立たしかった。
「遥歩……」
ふと足下をみると、拳銃が落ちていた。衝撃で胸ポケットから落ちたようだ。 圭一さんはそれを拾い上げた。まだだ。まだ負けたわけではない。 せめて相打ちででも、このアイバーを倒さなければならない。 グリップを強く握りしめ、意を決して呼吸を整えると、運転席のドアを開けた。 だが、もうろうとしていた意識のせいで、堂々とドアの前に佇む巨漢……アイバーの存在に、全く気がつかなかった。 やられる、そう思うが早いか、堅いもので頭を殴られ、圭一さんの意識は今度こそ暗い闇へと落ちていった。

 美里ちゃんと二人、落ち合い場所のファミレスへと向かう道中、 わたしの胸のうちには得体の知れない不安と恐怖が終始渦巻いていた。 心臓の奇妙な鼓動の高まりが感じられる。
 隣の美里ちゃんとちらりと見やる。 とびきりめかし込んでくるものと思っていたが、普段と変わらぬ出で立ちであった。 だが、それでもわたしより念入りな化粧、アクセサリの多さ、歩くたびになびくうす茶色のショートヘアは、 わたしよりも遥かにきらびやかである。本人もいつも通り陽気で、鼻歌など歌いながら歩いている。 わたしといえば人のことを言えた義理でもなく、まさにいつもと同じ服装だった。 もっとも、わたしとしてはただ美里ちゃんの付き合いという面目で参加するため、 なんの関心もなければ期待もしていなかったから、特に意識してもいなかった。
 人知れず圭一さんの気配を探していることに気がついた。 わたしにとってはこれから無益な時間を過ごすより、圭一さんと一緒にいることが大切に思えた。 うねうねと曲がりくねりながら続くなだらかな坂、そしてわたしの視界も、一瞬だがひどくゆがみ、 バランスを崩して倒れそうになった。
「遥歩っ!?」
咄嗟に美里ちゃんが支えてくれたおかげで大事にはならなかった。 頭の中がぼうっとしていたが、すぐに美里ちゃんに抱かれているのがわかった。
「あ、あれ……?」
「どうしたの遥歩、急に。」
美里ちゃんの顔をのぞき込むと、まれに見る真剣な表情だった。
「ごめん、なんでもない。ただちょっと、クラッとしただけだから。」
美里ちゃんに謝礼を述べ、再び一人で立つ。めまいは襲ってこなかった。
「体調でも悪いの?」と心配して訊いてくる美里ちゃんの顔にはまだ不安が満ちていたが、 「大丈夫大丈夫」となるべく明るく応えて、先を促す。
「遥歩ったら、さっきからなんだか元気ないから、心配してたんだよ。 最近何かあったの?」
 何かあったか……そう、未だに整理しきれない事柄、不思議な現象が多々あった。 そうだ、きっとそれらに囲まれて疲れているだけだったのだ。 どれもいつかは解決する。発掘された大昔の遺跡の謎だって、時が来ればいつも解き明かされる。 この世で不可能なことといえば、死人を生き返らせることくらいだ。
「ずっと休んでいた分を取り戻すために毎日徹夜で。 それでちょっと疲れてるのかな。」
「あはは、あたしなんて試験前日ですら勉強しないのに。 遥歩はまじめちゃんだなー。」
やっと笑顔を浮かべて、わたしのことをこづいた。 実際何一つやってはいなかったが、 わたしの言葉を美里ちゃんは信じたようだったので、これでいいと思った。
 今回のことは、美里ちゃんにも関係のないことだ。

 ほどなくして、夜の闇に浮かぶ小綺麗なコテージ風の建物が見えてきた。 あたりを無数のまばゆい電球で明るく照らし出している。 さほど大きくはなさそうだが、外からみれば雰囲気の良さそうなところだった。
「もうみんな来てるのかな。」
「さぁ、どうだろう。誰かさんが遅刻したから、あたしらが最後かもね。」
美里ちゃんはちくりという。
 ベルの音に迎えられ、店内にはいる。出来たばかりというだけあって、 中はまぶしいくらい綺麗だった。 外に負けぬほどの輝く電球の光を、フローリングの床や磨き立てられた大きな窓ガラスが反射し、 一層店内を明るくしている。 所々に施された小さなしかけ、しゃれた柱時計、テーブルや壁にまとわりつく宿り木、ゆったりとしたBGM、 確かに学生、特に女性に人気の出そうな店であった。
 中はほぼ満席、しかも客のほとんどが大学生とおぼしき人だった。 美里ちゃんが目をこらして、店内をくまなく探し回る。
「何人来るのか知らないけど、これだけ混んでるとそうそう席なんて取れないよ。」
「大丈夫よ、ちゃんと幹事さんが陣取ってくれてるはずだから。ほらいた。」
美里ちゃんの視線が一角で止まった。数人の集まりがテーブルを囲んで談話している。 二人分の空き椅子も見受けられた。
「いらっしゃいませ、二名さまですか?大変申し訳ございませんがただいま満席となっておりますので、 しばらくこちらでお待ちください。」
急がしそうに歩き回る店員のうち、一人がわたしたちのもとへやってきた。 店員もまた、大学生風のアルバイトだった。
「いえ、平気っす。あっちのやつらと一緒なんで。」
美里ちゃんは応えると、わたしを連れて隅の席に向かった。

 「ど〜も〜、遅れやした〜。」
悪びた様子も見せず、頭をさげながらひょうきんな声で美里ちゃんが割って入っていった。 途端に座の視線がわたしたち二人に向けられる。 その中の一人の女子が応えた。
「遅いじゃない美里。紳士の皆様をお待たせしないの。」
「ごめんなさい、ミス・幹事。こっちの連れが遅刻してきたもんで。」と言って、 美里ちゃんはわたしの背中をばんばんと叩く。 そして、今度は視線がわたし一人に集中し、思わず赤面してしまう。
「大丈夫だよ、気にしなくても。まだ始めたばかりだし」と、今度は別の男子が言う。
「ほら、いつまでも立ってないで座りなさいよ」と先ほどの女子。
「それでは、失礼して」と、手前の二席、先に美里ちゃんが座り、残ったところにわたしも座る。
「本日はどうもお招き頂き、ありがとうございました。」
美里ちゃんはきちんと膝に手を添え、お辞儀をしながら、 普段の彼女なら40度の高熱を出してうなされても発しないような言葉で誠意を表した。 わたしには「作ってる」ことがばればれだが、相手をみるとそうなるのもわかるような気がした。
 わたし達側にはミス・幹事ともう一人の女子、それに美里ちゃんとわたし。 向こう側には男子三人が着席している。 わたしはてっきりちゃらちゃらした男が来るものと思いこんでいたが、 実際には意外とまじめで、しっかりした感じの男子がそろっていた。 わたしがいなければ丁度良い数だな、などと思う。
 まず『紳士諸君』に美里ちゃんが自己紹介をし、続けてわたしを促して、わたしも自己紹介をする。 そして紳士諸君からも紹介をうけ、美里ちゃんは次いでわたしをミス・幹事ともう一人の女子へ、 最後に二人にわたしを紹介した。ミス・幹事こそが、美里ちゃんを招いた友人だということだった。
「それじゃあ全員そろったことだし、いっぱいやりますか」とミス・幹事はベルを鳴らす。 すぐに飛んできた店員に、「ジョッキ7つ」と注文した。
「お、お酒!?」
わたしの小声に美里ちゃんが「あれ、遥歩飲めなかったっけ?」と言ってくる。
「飲めないし、それ以前にまだ未成年だよ。」
「大丈夫よ、車で来た訳じゃなければ、捕まらないわよ」とミス・幹事。 美里ちゃんですら淑女を装っているので、彼女一人がこの場で浮いていた。
「あれ、君……」と、一人の紳士がわたしを見て言ってくる。 再び周囲の目をひき、体がこわばってしまう。
「遥歩さん、って言ったよね。もしかして、 この間河上先生のところにずぶぬれになって飛び込んできた子?」
思ってもいなかった言葉に一瞬絶句したが、すぐにこれ以上喋られてはまずいと思い、慌てて「別人です」と応える。 美里ちゃんの前であの日のことがばれたら、いくらからかわれるか解ったものではない。
「おかしいなあ、確かあの時の女の子もアユミっていってたし、それに顔もそっくりなんだけど。」
「河上先生って、あのセンセのこと?なになに、どんな話?」
美里ちゃんはいつもの彼女に戻ってしまったようで、紳士に詳細を訊ねた。
「三週間前くらいだったかな。突然大雨が降ってきた日なんだけど、 僕らが先生の研究室で寛いでたら、知らない女の子が全身ずぶ濡れで飛び込んできたんだ。 あのあとは先生はその女の子を連れて帰っちゃうし、詳細を訊いても応えてくれはしなかったんだけど、 さすがにびっくりしたよ。先生を見た途端抱きついて大泣きし始めるんだから。」
あの日、初めてアイバー達と出会った日のことだ。 まったく、奇遇なものである。 まさかこんなところで圭一さんの研究室に所属する学生と 席を共にするとは夢にも思わなかった。
「へえ〜、どういうことなのよ、遥歩。」
美里ちゃんが怪訝な目でわたしを見てくる。
「だから、わたしは知らないって。」
「じゃあなに、あんた以外にもセンセが下の名前を呼び捨てにするような、 仲の深い遥歩ってコがいるとでも?」
「それは……」と返答に困っていると、ミス・幹事や紳士諸君が、 わたしに奇異なまなざしを向けていることに気づいた。
「このコ、その河上センセと同棲してるの。大きい声じゃ言えないけど」と、 少し声を潜めて美里ちゃんは補足する。 途端にどよめきが巻き起こる。当然といえば当然だ。 美里ちゃんに初めて話したときだって、すごい剣幕でまくし立ててきた。 だが、美里ちゃんと違うところは、にやにやとからかわず、 「珍しいね」などと気遣った言葉遣いで応え、特別視しないところだ。 わたしには彼らが本当の『紳士』と『淑女』に見えてきた。 それに比べて、と、横目で美里ちゃんを睨む。 「ごめんごめん」といった意味を含んで、笑って返してきた。
「最近妙なんだよな。先生ときたら、『用事があるから』って言って、いつも早めに帰っちゃうんだ。 まあ、今日にしてみればそのおかげでこうして時間が作れたんだしね。」
先ほどの紳士は言った。
「今日も?」とわたし。
「ああ。大事な用があるって言って、六時に閉め出されたよ。 卒論のための実験が滞ってるっていうのに、これじゃ卒論まで辿り着くか解らないよ。」
また妙な胸騒ぎがした。連日早めに帰宅していたのは、わたしを気遣っていたからであろう。 しかし今日に限っては、わたしは知り合いの集まりで遅くなると伝えておいた。 だから、圭一さんだって早く帰る必要はないはずだ。もし彼の言うことが…… 何か重要な用事があるのだとしたら……鼓動が早くなる。 圭一さんを止めなければ、取り返しのつかないことになる。 不思議とそんな思いが巡った。わたしは、こんなところにいる暇などない。 音を立てて椅子を引き、立ち上がる。
「遥歩?」と、怪訝な顔で美里ちゃんは訊ねる。
「ごめんなさい、呼んでくださったのに申し訳ないんですけど、 わたし、その……用事を思い出したので。 急ですけど、失礼します」と、合コンを抜け出すにはいささか不自然な口調で辞去を伝え、 そそくさと入り口へ向かう。 「遥歩っ!」と、美里ちゃんの声が追いかけてきた。

 外へ出ると冷たく乾いた風が体に打ち付け、思わず身震いする。すぐに美里ちゃんに捕まった。
「遥歩、さっきはごめん。悪気があったわけじゃないの。 あたしって口が軽いからつい。本当にごめん。この通りだから、許して。」
美里ちゃんは両手を合わせ、頭をわたしの腰の位置まで下げて謝罪した。 どうやら、わたしが飛び出して来たのを、 圭一さんと同棲していることを暴露されたことに怒ったからだと思っているらしかった。
「違うよ、美里ちゃん。それは別に気にしてないって。」
美里ちゃんは「へ?」と、顔を上げてきょとんとした。
「思い出したっていうのは嘘だけど、用事ができたっていうのは本当なの。 用事っていうほどでもないんだけど。とにかく今日は、わたし帰るね。」
予想以上に冷たい夜気に胸元を押さえながら、わたしは踵を返した。
「遥歩ってば!」と、美里ちゃんは無遠慮に叫ぶ。
「また今度ね。彼らのうちの誰かとくっつけば、 美里ちゃんもゆかりちゃんみたいにおしとやかになれるかもね。」
呆れた顔の美里ちゃんを残して、来たばかりの坂道を上り始める。 駅とは正反対の方角、三十分ほどはかかるだろう。
 駅が近づくにつれ、不安の闇はわたしの心を覆っていった。

 体が揺られているのに気づいて、圭一さんは目を開けた。最初はどこにいるのか解らなかったが、 意識がはっきりしてくるとそこは車の助手席であるようだった。 圭一さんは顔を上げた。等間隔に立てられた電灯の光が尾を引きながら、前から後ろへ高速で流れている。 途端に後頭部に鋭い痛みが走った。両手をあげてかばおうとしたが、いうことをきかなかった。 背中でひもか何かで両手を縛られているようであった。
「よう、気がついたかい?」
隣には車を運転するアイバーが座っていた。窓を開け、右肘をかけて、左手でハンドルを軽く操作している。
先刻までの記憶が蘇ってくる。圭一さんの車は木へ突っ込み、拳銃を構えて覚悟をして外へ飛び出した瞬間、 アイバーに一撃を食らわされたのだった。 その後自分は気絶し、今はどこかへ運ばれている。 そういえば、圭一さんが撃った弾はアイバーのガラスを撃ち抜いたはずだったが、 今乗っている車にはその跡がない。途中で乗り換えたのだろうか。
「なんの真似だ。俺をどうするつもりだ?」
「おいおい、まだ寝ぼけてんのか?」
アイバーは視線は正面から外さずに、くつくつと笑った。
「お前を殺らないでこうして連れてきてるってことはだ。まだお前には利用価値があるってことだよ。 新しい研究者を育てるより、実績のある研究者のほうが手っ取り早いからな。」
「俺を拉致するのか?」
「早い話、そういうことだな。」
「俺がお前達に加担するとでも思ってるのか?」
アイバーはにやりと笑った。
「嫌でも加担してもらうさ。お前にはそうする以外に道はない。 もしお前が拒んだら、お前の姫君はどうなるか、想像つくだろう?」
「き、貴様、遥歩の命をだしにするのか!」
圭一さんは身を乗り出してアイバーに食いついた。 今になって気づいたが、足首にもひもが巻き付けられているようで、 これでは歩くことすらできそうになかった。
「命を取ろうとは思わないさ。そんなもの、一度きりしか使えない。 うちの組織に俺でもぞっとするほどのサディストがいてね、 そいつが丁重に扱ってくれるだろうさ。死んだ方がましだと思えるくらいにね。 そういや、例のディスク、あれダミーだったな。想像はしていたが。 拳銃まで持ち出すし、初めから俺を殺るつもりだったみたいだが、残念だったな。 まあ諦めな。お前の生活に不自由はさせないさ。」
圭一さんは愕然とした。そして自分がどうすべきか、 残された道が一つしかないということも悟った。 どんなことがあっても、『レガシー』をこいつらに渡すわけにはいかない。 今までのように自分たちだけでひっそりと研究を続けてきたのと違って、 こいつらは世界をひっくり返しかねないことに使うだろう。 しかし、身動きの取れないこの状況で、自分一人だけ安全に抜け出すことは不可能と思われた。 窮屈な体勢でドアロックを外し、ドアを開けるわずかな時間、 この男がその怪しい動作に気づかない訳がない。
 取り引きの約束をした夜に、もう覚悟は決まっていた。 こうなったのも自分の所為。わたしも、そして『彼女』も巻き込むわけにはいかない。 万が一のことがあった場合、今野先生にわたしのことは頼んであった。 そして『手紙』もあの晩に書き上げた。真実を綴った、それこそ、 圭一さんをはじめわたしの両親、今野先生、レガシー、そしてわたし、それに『彼女』と冬幻想花の力、 その全てを記したわたしへのメッセージ。これから先、一人で生きていくであろうわたしに対する、 圭一さんが宛てた最後のメッセージ……。
 対向車線に大型トラックの影が見えた。夜の道路を照らす二つの光がすぐそこまで迫っている。 時速は70キロに近い。
「遥歩……」
圭一さんは心の中でわたしを呼んだ。
「最後の最後まで心配をかけてごめんな。 君の本当の気持ち、解ってはいたが、応えることは出来なくなってしまった。 辛いかもしれないが、これから先も精一杯生きて欲しい。 君のご両親と、俺の分まで。」
二つのライトはすぐそこまで迫ってきていた。
「さよなら、遥歩……」
圭一さんは体をひねって、窮屈な体勢ながらも強引にハンドルを右へ回した。 アイバーも一瞬なにが起きたのか解らなかっただろうが、 すぐにブレーキを踏むももうすでに手遅れだった。 車は反対車線へ乗りだし、そこへ走ってきた大型トラックが 高音のクラクションを伴って容赦なく突っ込む。 夜の街中に爆音が響き渡り、ごうごうと黒煙が舞い上がった。

2.

 家へ帰り着き、中へ入って鍵を閉めると同時に、電話が鳴り出した。 家のなかは真っ暗、圭一さんは帰っていないようだった。慌てて電話機へ駆けつける。
「もしもし、河上圭一さんのお宅ですか?」
聞いたことのない声だった。わたしは「そうですが」と応える。
「失礼ですが、奥様でいらっしゃいますか?」
奥様……勝手に狼狽しながら「いいえ、ただの同居人です」と応える。
「そうですか。こちらは如月病院のものなのですが、実は、 大変気の毒なお話なのですが、河上圭一さんが先ほど事故に遭われまして。」
心臓がどくんと脈打ち、頭の中が真っ白になる。圭一さんが事故?まさか……
「車の衝突事故だったのですが、その際炎上しましてね。 もう一人の運転席に座っていたと思われる男性は、 救急車が駆けつけた時には残念ながらもう息がなかったのですが、 河上さんのほうは九死に一生を得たようでして、まだわずかに息があります。 持ち物から連絡先としてこの番号が見つかりまして、連絡を差し上げたのです。 今は如月病院に収容されています。本人確認も必要ですし、一度来ていただけますか?」
最後の病院名以外は耳に入らなかった。 圭一さんが事故……今度こそ胸がはじけそうになる。 バッグから財布だけを抜き出して家を飛び出すが、詳しい位置は解らなかったので慌てて引き返し、 タクシーの番号をダイヤルした。
 マンションの入り口でタクシーを待つ。その時間は永遠に続くかと思われた。 圭一さんが事故に遭った……未だに信じられなかったが、確かにわたしは嫌な予感がして、 友人が引き留めるのを強引に振り切ってこうして戻ってきた。 いや、初めてアイバーと会った日、あの日もこうして慌てて大学まで飛んでいったが、 肝心の圭一さんには何事もなかった。今回もただの思い過ごしかもしれない。 だが、確かに圭一さんの家へ電話がかかってきた。だとしたら本当に…… 一刻も早く真相を突き止めたい。圭一さんに会いたい。 そう考えるといても立ってもいられず、ただ泣き崩れ、嗚咽をはき出すだけだった。
 タクシーに乗ったあとも意識は乱れたままで、 ただごとではないと察してくれた女性のドライバーはわたしを気遣う言葉をかけながら、 猛スピードで病院へと向かってくれた。
 病院の前へ着く。「お金はあとでいいから、早く行っておいで」との言葉に、 わたしは感謝の言葉を述べ、車を飛び出した。
 受付で事故で運ばれた患者の病室を訊ねると、三階の集中治療室だという。 階段を駆け上がるのを看護師に注意されながら、息を切らして目的の部屋まで辿り着く。
 だが、着いてみると整然としていた。その時にはすでに検査が終わり、一般病棟へ移されたとのことだった。 階段を一つ上がり、目的の部屋を探す。
 ノックもせずに乱暴に扉を開ける。 付き添っていた看護師二人が何事かとこちらへ顔を向ける。そしてその先、 一人の患者がベッドへ横たわっていた。わたしはふらふらとベッドへ向かう。 点滴や呼吸器の管が数本、圭一さんへ伸びていた。瞼は重く閉ざされ、髪はわずかに焼け焦げてしまっていたが、 見間違うことなく、確かに圭一さんだった。
 飛びつこうとしたところを看護師に押さえられ、「圭一さん!」と何度も叫ぶ。 押さえつけた看護師はもう一人に目配せをして、わたしをなだめた。
「あまり衝撃を与えちゃだめよ。全身打撲に出血多量で危険な状態なんだから。」
優しい口調とは裏腹に、身動き一つとれないほど強い力でわたしを押さえつける。 わたしは憔悴しきった顔つきで、床へ崩れ落ちた。
 程なくして医師とおぼしき白衣を纏った老人と警官が一人、部屋へ入ってき、わたしを椅子へ座らせる。 わたしはもうだいぶ落ち着いてはいたが、ベッドの方へ視線を移すとまた涙が溢れてきそうになるので、 ずっと唇を噛みしめ、床の一点を見つめていた。
「では、こちらは河上圭一さんに間違いないのですね?」
わたしは頷く。
「失礼ですが、ご家族の方で?」
「いえ……」消え入りそうな声で応える。「ただの居候です」
「そうですか。ご家族の方とも連絡を取りたいのですが、住所や電話番号はご存じですか?」
「知りません」とわたし。
「あの、どうしてこんなことになったんですか?」
向こうの質問も終わらないうちに、わたしはいてもたってもいられずに問いかける。
「丁度一時間前くらいですね。隣町の大通りで、 反対車線へはみ出した車両一台とトラックが衝突しましてね。 トラックの運転手は幸運にも軽傷で済みました。 もう一台のはみ出した車のほうにはこちらの河上さんと、一人の外国人男性が乗っていたものと思われます。 運転席には外国人が乗っていましたが、すでに息はありませんでした。 身分証もビザも、免許証すら見つからず、身元は未だに不明です。 車のナンバーも未登録でした。 あとでご覧になってもらうことになります」と警官が応えた。 わたしは外国人と聞いて、すぐにアイバーの名前が脳裏に浮かんだ。 だとしても、なぜ圭一さんがアイバーとともに車に乗っていたのだろう。
「それと、詳しいことは落ち着いてからお聞かせしますが、 発見当時河上さんは両手両足をひもで拘束されていました。 そのことも踏まえ、なんらかの事件として調査中です。」
わたしはゆっくりと立ち上がった。肩に手を乗せ、 気遣ってくれていた看護師が「どうしたの?」と訊ねる。
「一人にしてください」と言い残し、病室を出た。 今は誰の声も、何の話も聞きたくない。

 翌朝、気がついた時にはベッドに横になり、額に手をあてて天井を見つめていた。 帰ってきて着替えもせず、布団の中に潜り込んだのだった。
 昨晩のことが脳裏をよぎる。圭一さんが事故に巻き込まれたなどとは、 一夜明けた今でも信じられない。
 あのあと、警察から圭一さんのことやわたしとのつながりのことなどを問われた。 しかし、わたしとくればショックでまともに会話すらできない状態だったので、 これ以上尋問しても無駄だと思い、わたしをさっさと家へ連れて帰らせた。
 わたしはのろのろと起きあがり、洗顔をしに洗面台へ向かった。 鏡に映る自分の顔はまるで別人のようだった。 一晩中泣いて、身も心も傷だらけの、痛々しい自分がそこにはいた。 そのあと、電話の子機を持ってくるため、圭一さんの部屋までやってきた。 ドアを開けると、いつものように圭一さんがパソコンに向かって仕事をしている、 そんな浅はかな空想を抱きつつ、ドアを開けた。当然、部屋の中はもぬけの殻だった。 主のいない土曜日の朝、部屋も街も静寂に満ちていた。 昨日詳しい話を聞けなかったので、今日は警察がやってくるという。 それに、病院から電話がかかってくるかもしれないので、 いつでも出られるように、子機を手元に置いておこうと思っていた。
 圭一さんはなんとか一命をとりとめたので、 あとは回復を待てば、やがて目を覚ますだろうとのことだった。 だが、それがいつになるかは解らないという。それまでは、圭一さんは病院の囚人だ。
 しかし、わたしの心に渦巻くこの混沌とした不安はなんだろう。 嫌な思いをぬぐい去ることができない。 もしも二度と会話ができないとしたら。二度と目を覚まさなかったら……
 わたしは頭を大きく振って、嫌な考えをはねとばした。 大丈夫、心配しなくても、圭一さんはよくなる。 わたしが元気にしていなければ、圭一さんだって元気になりっこない。 今はまずお風呂に入って、何か食べよう。気がつけば、昨日の昼から何も口にしていない。
 午前十時きっかり、電話がなった。警察からで、そろそろ伺うとのこと。 わたしは了承し、電話を切る。
 ものの数分後、二人の警官がやってきた。 昨日病院で居合わせた警官とは別人で、二人とも私服だった。 詳細は圭一さんが目を覚ましてから直接本人に聞くとして、 現段階でわたしの知っている情報を話して欲しいとのことだった。 「あなたはご家族の方ではないのですね?」「はい」「では一体なんなのですか?」 「ただの居候です」「昨晩の19時過ぎ、あなたは何をしていましたか?」 「友人達と食事の予定でしたが、気が変わって先に一人で辞去しました」 「ご自宅に帰られたのは何時頃ですか?」「20時ちょっと前だと思います」 「病院から電話があったのは何時頃ですか?」「帰宅した直後です」 「それからすぐに病院へ向かわれた」「はい」「結構。事故当時、 河上さんは両手両足を縛られていました。口は自由だったと思われます。 同乗していた運転手の仕業かと思いますが、この男に心当たりはありますか?」 そう言って、テーブルの上に二枚の写真を差し出した。 一枚は体の全体像、もう一枚は顔の拡大写真だった。 サングラスは外され、目を閉じていたが、それは間違いなくアイバーだった。
「アイバーという男です。ちょっと前から、 わたしと圭一さんをつけ回していたみたいです。」
そう言うと、二人の目つきが変わった。
「つけ回していた、というのは、どういう理由からで?」
「分かりません。少なくともわたしは身に覚えがありません。」
「それはいつごろから?」
「一月前くらいだと思います。」
「フルネームは?」
「知りません。自らアイバーと名乗っただけです。」
「話をしたのですか?」
「一度、最初に会ったときに。話をしたというほどでもありませんが。」
「他に、何か特徴などは?」
「特徴……ええと、拳銃を持ってました。 それと、レベッカという女性と一緒でした。」
「そのレベッカという人は、どんな人でした?」
「このアイバーと同じで黒のスーツを着て、金髪のロングヘア、 背も割と高い方だったと思います。」
メモを取っていたほうの警官がもう一人にひそひそと耳打ちをした。 わたしは警官のこういうところが嫌いだ。
「このアイバーという男もレベッカという女も、 身元は分からないんですよね?」
「はい。」
「分かりました。今日のところは失礼します。 また何か伺いたいことがある時はお願いします。」
軽く一礼をすると、そそくさと立ち上がってさっさと帰ってしまった。 茶など出さなくてよかったと思う。
 警官がいなくなると、途端にすることがなくなってしまった。 今日は土曜で講義もない。 時間はたっぷりあるので、病院へ行ってみることにした。 昨日は気が動転していて場所などまったく覚えていなかったが、 調べてみれば隣町の駅から歩いて二、三分のところだった。

 週末ということもあって、病院内はにわかに混雑していた。 ロビーでは世間話が飛び交い、騒々しい限りだったが、 一歩病棟へ入れば静かなもので、自分の足音にさえ気を遣ってしまうくらいだった。
 昨日と同じ部屋の前に立つ。 壁を見やると、患者名が河上圭一になっている。圭一さんはまだここにいるのだ。
 軽くノックをして扉を開ける。ついたての奥を除くと、ベッドに横たわった圭一さん、 そして、昨日もいた看護師の一人が、立ってなにやらバインダー上にメモを取っている。 わたしの存在に気づくと、「あら、あんた確かこの人の」とぶっきらぼうに応えた。 年はわたしとそう離れてなさそうだったが金髪で厚化粧、 濃いマスカラにアイシャドウと、一昔前のコギャルのような風体だった。 「あの、」といって、言葉が続かない。「圭一さんは元気ですか」など、聞くだけ無駄だ。 昨日と同じように圭一さんは瞼を閉ざして、眠っている。
 俯いていたわたしに、「あんた、面会証は持ってきたの?」と、看護師は無頓着に言った。 「面会証?」と首をかしげるわたしに、看護師は面倒くさそうに説明した。
「この病院では患者に会うときは面会証っていうのが必要なの。 家族の人ならフリーパスみたいなもんがあるんだけどー。 あんた家族の人じゃないんだよね。まーついてきて。」
わたしの脇をすり抜け、ドアを開けたところで立ち止まり、わたしの方に振り返った。
「そうそう、あたし河上さんの担当になった堀沢。あんた、名前はなんだっけ?」
「み、水奈月、遥歩です。」
「アユミね。まあよろしく」と、とても友好的とは思えない口調で挨拶を交わし、廊下に出る。
 先ほど上ってきた階段を通りすぎ、角を曲がると外来受付口というカウンターがあった。
「よっ、ミホちん」と堀沢さんが声をかけると、俯いてなにか書いていた看護師が顔をあげた。
「あら、かなえ。またサボり?」と、受付の看護師ははにかんで言った。
「違う違う。この子に面会証の書き方教えてあげて」と堀沢さん。
「それじゃあ、この紙に、こことこことここを記入して」と、丁寧にペンで丸印をつけて渡してくれる。 笑うと優しそうな顔でどこかゆかりちゃんと似ている。堀沢さんとはまるで正反対だ。
「今度から部屋へ入る前に、ここでこの紙を書くのよ」と、堀沢さんは 人がまだ書いてるにもかかわらず横やりを入れてくる。
「そう言えばさ、ミホちんあれからヤスのやつに会った?」
今度は世間話のようだ。
「会ってないわよ。なんで私が。」
「そうなの?何よあいつ、連絡の一本くらいよこしたっていいのに。」
「一方的に振っといて、よくいうわよ。」
「だからさ、もう一度考え直そうとか、言ってきてもいいじゃんて言ってんの。」
そんなの誰だってごめんこうむるだろう、とわたしは心の中で呟く。
「まあいいけど。あたしもあんなのとやり直すつもりないし。」
「じゃあわざわざ聞かないでよ。それとも、やっぱり未練があるんじゃないの?」
「まさか。それより、今度他の男を……」
「あのう、書きましたけど!」とわたしは口を挟む。 放っておいたのではいつになっても先に進みそうにない。
「あ、ごめんなさい。そうしたら右半分だけ切り取って、持って行って。 看護師がいたら提示してね。帰る前にはこの投函箱に入れていってね」とミホちんさんが応える。
「基本看護師いなくても入って構わないんだけどー、まあ検査とかのあとで立ち入れない時もあるから、 なるべく同伴にしてね。あと、別にあたしじゃなきゃいけないって訳じゃないから、 出来ればあたしのいないときに来てね。これでも結構忙しいから。」
願わくばわたしもそうありたいと思う。

 一人で病室に戻ったあとは、しばらく座って圭一さんを眺めていた。 何を考えていたわけでもない。ただぼうっと、視線を前に落としていただけだった。
「あれ、まだいたの?」
部屋へ入ってきての堀沢さんの第一声がそれだった。 だが、それによってわたしはやっと現実の世界に意識が戻ってきた。
「もう帰ります。」
椅子を軽く後ろへ引いて立ち上がった直後、一瞬のうちにわたしの頭の中は真っ白になり、 そのまま後ろへ傾く。「ちょっと!」と言うが早いか、 堀沢さんは崩れ落ちそうになるわたしを慌てて支えた。 段々と意識が戻ってきた。しかし、今度はひどい頭痛がする。
「大丈夫?立ちくらみにでもなったの?」
堀沢さんへ顔を向けると、今までとは違った真剣な表情だった。 普段はああでも、免許を持つれっきとした看護師なのだ、と痛感する。
「大丈夫です、ちょっとくらっときただけで。 じゃあわたし、これで。」
一人で立ち上がり、ドアへ向かうわたしに、「玄関まで送ろうか?」と、 初めて気の利いた言葉が飛んできた。 わたしは改めて堀沢さんを見直し、丁重に断って部屋をでた。
 階段ではスロープに捕まり、廊下は壁に手をつきながら、 ようやくの思いでエントランスに辿り着く。 タクシー専用の電話が置いてあるので、それでタクシーを呼び、外へ出る。 さっきは頭痛だけだったが、今はめまいが襲い、体は鉛のように重く、熱っぽかった。 病院の中で風邪を引くとは皮肉なものだ。 圭一さんどころではなくなってしまった。
 だが、妙な点がある。病院へ来る前までは普段と別段変わったところはなかった。 それが、風邪を引いたか移されたかしても、こんなに早く体が急変するだろうか。 それよりも、頭痛の引き金となったあの立ちくらみだ。 昨日美里ちゃんとファミレスへ向かう最中にも似たようなことがあった。 単なる立ちくらみだろうか。今のわたしには考える余裕はない。 一刻も早く帰ってベッドに潜り込みたかった。

2.

 わたしの様態は徐々に悪化していった。 もう二日もベッドに寝たきりで、起きて食事を摂るのも億劫だった。 電話の子機だけは常に枕元に置いておき、病院、 あるいは目を覚ました圭一さん本人から連絡が来るのを待っている。 だが、未だにそのどちらもない。 あの時、病院で先生はすぐに目を覚ますだろう、と言っていた。 すぐとはどれくらいなのだろう。もう三日も眠り続けていることになる。 それとも三日は「すぐ」の範囲内なのだろうか。いつまでが「すぐ」なのだろう。
 月曜日の朝、大学へ連絡を入れた。 恐らく現時点で圭一さんが入院していることを知っているのはわたしだけだ。 当然、講義や学会にも出席できないことを思い出し、慌てて知らせたのだった。 教員が休みに入ってしまった場合はどうなるのだろう。 他の同じ専攻の人が代わりに出るのだろうか。 わたしには分からない。
 そして、午後には凛ちゃんから電話があった。 凛ちゃんから電話が掛かってくるのは珍しい。 内容はわたしが大学を休んだから気になったという。 わたしは軽い風邪を引いて安静にしていると、 あっているような間違っているような返答をした。 一応凛ちゃんは了承したが、ただなんとなく、 まだ何か言いたいことがあるような感じを受けた。
 翌日、寝る前に飲んだ栄養剤が効いたのか、 幾分楽になり、少しは起きて動けるようになった。 溜まっていた洗い物をし、洗濯物を干す。 まだ大学に行く体力はなかったが、冷蔵庫の中はすでに空っぽだったので、 覚悟を決めて近くのスーパーへ買い出しに行く。 できるだけ沢山の食料を買い込み、 栄養ドリンクも何本か買ってみる。 明日また体調が良ければ、病院に行ってみようと思う。
 さらに翌日。まだ微熱も頭痛も残ってはいたが、 どうにか病院くらいなら行けそうだった。 圭一さんの様態が気になって眠るに眠れないので、 できるだけ厚着をして家を出る。
 病室へ入るとまたもや堀沢さんが居た。 堀沢さんはわたしの格好をみると「風邪?」と訝る。
「圭一さん、まだ目を覚まさないんですか?」
わたしの問いに、堀沢さんは表情を曇らせた。
「あたしはドクターじゃないし、よくは分からないんだけど、 結構やばそうな感じ。」
「やばいって、どういうことですか?」
「これだけ目を覚まさないっていうのはおかしいってこと。 ドクターも首をかしげてたし。」
本来ならもう目を覚ましていてもいいはずなのだ。 なのに、圭一さんはまだ眠り続けている……。
「あ、そんな暗い顔すんなって。 大丈夫よ、もうすぐ目を覚ますって。」
暗く落ち込むわたしを見て、堀沢さんはわたしを元気づけるように明るい声で言った。
「河上さんも、目を覚ましたときアユミが笑ってないと悲しむんじゃないの?」
「……はい。」
「ほら、元気だせって。そうだ、今晩一杯やろうか?」
「わたし、未成年です。」
「そうか。ま、とにかく、元気だしなって。 それと、河上さんはあたしがちゃんと面倒見るから、 アユミは自分の風邪をとっとと治すこと。いい?」
この間とはうって変わって快活で優しい堀沢さんに、 わたしは違和感を覚えながらも感謝し、 根はいい人なのだと思いながら素直に頷いて病室を出た。
 それから二日後。相変わらず病院からも圭一さんからも連絡はない。 わたしの体調も優れず、結局一週間大学を休んでしまった。
 玄関のベルが鳴る。まさかとは思いながらも、 よろよろと起き出してドアを開ける。そこには美里ちゃんが立っていた。
「あ、遥歩……。」
そう言うと視線を落としてしまう。いつもの美里ちゃんではなかった。 先週会ったばかりだが、久しく会っていなかったような感じがして、 わたしは心がなごんだ。
「どうしたの?美里ちゃん。」
「うん、その、風邪だって聞いて。凛から。」
「それでわざわざ来てくれたの?」
「いやまあ、それもあるんだけど。この間は悪いことしたなって。 やっぱり、無理矢理連れて行かなければよかったと反省してる。 でも、電話じゃ話す気になれなくて。 結局、今日までぐずぐず引きずっちゃってさ。」
合コンの日のことを言っているのだと分かった。 わたしが一方的に帰ってしまったことに、 美里ちゃんは思い詰めていたようだ。
「いいの、そんなこと。それより、わたしの方こそごめん。 美里ちゃんがそんなにわたしのこと気にしてくれるなんて。 悪いのはわたしなんだから。 勝手に帰ったりして。だから謝るのもわたしのほうだよ。」
美里ちゃんは顔を上げて、やっと笑顔を見せた。
「ありがと、そう言ってくれて。やっぱ遥歩は優しいな。 はいこれ、お見舞いの品。」
手に提げていたスーパーの袋を受け取る。 中には果物やら缶詰やらが入っていた。
「ありがとう、わざわざ。」
「いえいえ。掃除とか料理とか、やってくことある?」
自然な心配りは美里ちゃんの良いところで嬉しかったが、 風邪をうつしてはいけないと思い、丁重に断った。
「早く元気になりなよ。」
美里ちゃんは大きな目でウィンクして笑ってみせる。 わたしも笑みを浮かべて別れた。
 内側から鍵をかけると、途端にまた頭痛が襲ってきた。 部屋へ戻ると美里ちゃんからもらったお見舞いの品を机の上に無造作に乗せ、 ベッドへ倒れ込む。なんなのだろう、これは。

 暗闇の中。静寂の中。わたしだけが存在している、孤独な世界。 始まりも終わりもない、あるのは無と永遠の時。 これが『死』というものなのだろうか。 不思議と怖くはない。わたしがいなくなったところで、 何か変わるわけではない。 凛ちゃんや美里ちゃんは悲しんでくれるだろう。 けど、世界中のほとんどの人は、わたしという存在すら知らない。
 唯一、心残りといえば、圭一さんだ。 もう一目でいいから会いたかった。 もう一言でも、お別れの言葉を言いたかった。 圭一さんが目を覚ましたとき、わたしという存在を覚えていてくれるだろうか。 もはやこの世にいない、わたしという存在でも。
 闇の中に、ぼんやりと小さな光が灯った。 光はやがて大きく、はっきりとしてくる。 花だ。わたしも知っている花、冬幻想花。 声が聞こえたり、頭の中に閃光がほとばしったりと、不気味な花だ。 その冬幻想花は、弱々しく光を放ちながら、またわたしにしゃべりかけてきている。 ……そう、よく分かっているね。その通り。わたしはお金も名誉もいらない。 ただ一人、大切な人がいてくれればそれで。 ……そうだね、このままじゃいけない。わたしはまだ倒れるわけにはいかない。 でも、目を覚ましたわたしには、もう何する体力も残っていないかもしれない。 ……あなたが助けてくれるの?ありがとう。それならわたし、頑張ってみる。 もう少しだけ、わたしに時間を頂戴……。

 いつ眠ったのか、今日が何月何日なのか、記憶さえも曖昧になってきたようだ。 けど、今しがた見た夢は覚えている。わたしは起きあがり、 ふらふらとした足取りでリビングに向かった。
 明かりを点けるまでもなく、冬幻想花は部屋中をかすかな光で満たしていた。 吸い込まれるように近づく。水をあげていなかったせいか、葉も土もわずかに乾燥し、 弱々しく見える。わたしは葉にそっと手を触れる。 光がわたしの両手も包んだ。
 耳からは何も聞こえなかった。だが、わたしの心にはちゃんと響いてくる。 いつでも優しく、わたしを包んでくれた、懐かしい声。 心に届いた声を頼りに、圭一さんの部屋へ向かう。
 明かりを点け、机の上に乗ったままのノートパソコンの電源を入れる。 デスクトップ画面まで行くと、ファイルが一つ置いてあった。 『遥歩へ』。それをダブルクリックし、開こうとする。 だが、パスワードがかかっていた。 冬幻想花の声では何も言っていなかった。 仕方なく、思いつく限りの単語を手当たり次第に入力していく。
 しばらく奮闘したが、結局開かない。視界が霞んでき、また眠気が襲ってきた。 今度眠ったら二度と目を覚まさないと、直感的に感じる。 それでも、瞼を閉じずにはいられなかった。 だが、しばらくすると、またぼんやりとシルエットが、闇の中に浮かんできた。 今度は花ではない。人の形……いつしか見た、少女の後ろ姿だ。 少女はゆっくりとわたしに向き直る。その視線は真っ直ぐ『わたし』に向けられていた。 わたしははっとして目を開き、キーボードを叩く。
『Alice』。
パスワードは解除され、画面一杯にびっしりと文字が浮かび上がった。 読みやすい大きさに画面を整え、呼吸を整えてから、 わたしは圭一さんが残したメッセージを読み始めた。

第六話

第八話